大願成就の島 硫黄島熊野三山


[ HOME掲示板TOP一覧表示ツリー表示トピック表示新規投稿記事検索記事修正・削除携帯用URL管理用 ]


[89] 特別講義視聴報告 Name:小倉康紀 MAIL Date:2018/05/07(月) 21:34 [ 返信 ]
フィクションと考えられてきたことが多分野の文献渉猟とフィールドワークにより史実として提示されたことがわかりました。
歩数計算、俊寛堂から本宮までの地形が川の屈曲で共通すること、那智の滝の特定で資料により直曝が1割と確認されたことなど、手法が印象に残ります。
延慶本は原著作者が帰り着いた2名への取材をしそれを経て成立したのか、熊野社の勧請は那智の滝を発見した後で想到されたと考えられないか、など想像しました。
「勧請」の語について、熊野社の承諾と協力が得られたのか、「滝を勧請」とは、についてよくわかりませんでした。

[90] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/05/13(日) 12:21
疑問点にお答えします。

>延慶本は原著作者が帰り着いた2名への取材をしそれを経て成立したのか
→成経は建仁2年(1202年)までの生存が確認されますので、成経や康頼が都で語ったことが情報源になっているのでしょう。

>熊野社の勧請は那智の滝を発見した後で想到されたと考えられないか
→三山揃わなければ意味がないとすれば、おっしゃるとおりでしょう。

>「勧請」の語について、熊野社の承諾と協力が得られたのか、「滝を勧請」とは、についてよくわかりませんでした。
→正式な勧請と違って、彼らが勝手に「見立てた」「なぞらえた」ということでしょう。川の屈曲地点に石を積んで「本宮」と言い、滝が見える場所に拾った小枝で鳥居を作って「那智の滝」遥拝所と呼んだようなイメージです。誰かの許可を必要とするようなものではありません。

[87] 番組を視聴して Name:田村つかさ Date:2018/04/30(月) 19:46 [ 返信 ]
私はこれまで『平家物語』について深くまで触れたことがなく、理解出来るか不安だったのですが冒頭で『平家物語』や硫黄島の記述がある場面について詳しく説明していただけたのですんなりと内容に入ることが出来ました。番組全体として「なるほど…」と何度も頷きながら聞き入ってしまいました。特に、立地条件から読み解いていく部分では思わず声を上げてしまいました。文学は机上だけでなくだけでなく実際に行ってみることも大事なのだと分かりました。番組を見ていくなかでいくつか疑問に思うことがありました。潮の流れを確定するために何人の人が犠牲になったのか、「ウータン」という名前は誰が付けたのか、岩ばかりの場所でどうやって住んでいたのか、という点です。また、稲村岳から歩いて測ったとはいえ今と昔では歩幅が一緒なのかどうか、どうやって分かるのだろうと思いました。これを機に『平家物語』を読んでみようと思います。また今後の文学研究において型にはまらず様々な観点から研究しようと思いました。

[88] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/05/05(土) 22:02
疑問点についてお答えします。

>潮の流れを確定するために何人の人が犠牲になったのか
→『三国名勝図会』に記されている、潮の道のことですね。先祖から子孫へと「あそこは危ない」などと伝承されていったのでしょうが、無数の人が犠牲になったのでしょう。

>「ウータン」という名前は誰が付けたのか
→漢字で書くと「大谷」。現地の読み癖で「ウータン」。京都の「大谷」を想起しますね(現在は五条東山の大谷本廟が有名ですが平安期の大谷は知恩院のあたり)。私も、京都から流された人(康頼など)が付けた地名ではないかと思ったりします(それを裏づける証拠がありません)。田村さんもそう思われたのでしょう。ここに着眼されるとは、いいセンスです。

>岩ばかりの場所でどうやって住んでいたのか
→実際には海岸に住めるはずもなく、大谷の沢筋に住んだのだと思います。硫黄島北部でもっとも大きな沢で、よそに比べて水を得やすく、風よけもでき、沢の側壁(土質)に横穴を掘れば雨もしのげます。巨石の並ぶ海岸のすぐ近くです。いいご質問です。

>稲村岳から歩いて測ったとはいえ今と昔では歩幅が一緒なのかどうか
→昔の人は身長が低かったと思っている人が多いのですが、それは近世の人で、それ以前はそうでもなかったとされています。平安末期の藤原清衡159cm、基衡167cm、秀衡164cmです(ミイラが現存していて判明)。私の調査では、自分の歩幅が上りで48cm、平地で50cm、下りで52cmであることを確認し、平均50cmとして稲村岳〜大谷の距離を算出しました。当時の人の身長が現代人と比べて1割低かったとしても、「五十余丁」という距離はやはり符合するのです(「余丁」があるので誤差を吸収する)。

[86] 若者の感受性 Name:野中哲照 Date:2018/04/14(土) 18:55 [ 返信 ]
 この掲示板の2017年11月〜2018年3月分は、野中哲照が東京都内の某大学(現在3つの大学の教壇に立っています)で受け持った学生さんとのやりとりを転載させていただいたものです。
〔授業用の学内ネットに書きこまれたやりとりです。学生さんには「大願成就の島」への転載を了解していただいています。〕
 一般に「若者は頭が柔らかい」と言いますが、それに加えて感受性の豊かさにも驚かされます。いわゆるツカミが良いのですね。この番組を通して、「専門に閉じこもっていてはだめだ」と言っているわけですが、その一番大切なところにどの学生さんも食いついてくれています。
 研究者・学者が専門をもつのは当たり前のことなのですが、それは視野を狭くすることにもつながります。その危うさを受けとめてくださった若者たちの素直な感受性をとても嬉しく思っています。日本の人文学(文学・歴史学・民俗学・宗教学・美術史学…)の未来は明るいと思いました。

[85] 2018年前期の放送日程 Name:野中哲照 Date:2018/04/08(日) 02:01 [ 返信 ]
放送大学特別講義
「薩摩硫黄島の熊野三山と『平家物語』」

【放送日時】
 2018年4月28日(土) 9時00分〜9時45分
 2018年9月30日(日) 21時30分〜22時15分
【チャンネル】
首都圏では12cn(他はBS放送大学チャンネル231cn)

※放送大学は2018年10月からBSに完全移行します。首都圏12cnで放送大学が見られるのは、これが最後のチャンスとなります。

[83] 特別講義「薩摩硫黄島の熊野三山と『平家物語』」を視聴して Name:齋藤功貴(野中が代理投稿) Date:2018/03/26(月) 22:21 [ 返信 ]
「延慶本平家物語」が、脚色が少なく最も史実に近いということは納得できました。そのうえで「平家物語」はどこまでが史実に基づいているのか、特に硫黄島での出来事は、フィクションなのか否か明らかになってはおらず、都の宮廷人が想像で描いたとも考えられていたので、実際に硫黄島に赴き平家物語が史実に基づいているか検討することが有効なことであったと理解できました。「平家物語」研究の枠組みを飛び越え、物語当時を対象とした他の文献も参考にすることで研究が重層的かつ、説得力が増していくことが分かりました。中でも地理学的視点(現在の海流図等)を用いて、「平家物語」に見られる硫黄島の描写が一致するか否かを明らかにするといった研究方法は目から鱗という気もしました。さらに、延慶本平家物語の表現から三人の住居を明らかにしていく過程は説得力があり、五十余長を実際に歩くことで五キロ未満であることが明らかになることも、実際に歩かなければわからないことなので、硫黄島に赴くことが有効だと思いました。和歌山の熊野大社の本宮と新宮が川で繋がれているため、硫黄島の俊寛堂こそ本宮であったという仮定は非常に鋭いものです。川が屈曲しているという地形が熊野神社に適する地形である点も一つの有効な証拠であります。三つの謎が関連しながら、那智の滝に相当する滝が硫黄島にあることも明らかになったことにより、いよいよ「平家物語」硫黄島の場面がフィクションとすることはできないということが分かりました。今回の放送を見て、率直な感想は「面白い」というものでした。それは今まで、文学研究をする際の手段は、テキスト論、歴史学、という視座から偏った切り口から研究しており、作品に対して重層的な見解を述べることができていなかったという私自身の経験があり、その点から考えると、野中先生の「平家物語」研究は、フィールド―ワークを交えていることからもわかるように、非常に奥行きのあるものでした。また一つの視座に拘泥しない姿勢から、鋭い仮説を立て、その仮説を立証していく過程は見事だと思いました。一つのことを探求するには、考古学、民族学、歴史学といったカテゴリ―の枠組みを飛び越えることが有効な手段だということを学びましし、できればもっと早くこのような研究手段を目の当たりにしたかったと痛感いたしました。

[84] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/03/31(土) 09:59
>また一つの視座に拘泥しない姿勢から、鋭い仮説を立て、その仮説を立証していく過程は見事だと思いました。一つのことを探求するには、考古学、民族学、歴史学といったカテゴリ―の枠組みを飛び越えることが有効な手段だということを学びましし、できればもっと早くこのような研究手段を目の当たりにしたかったと痛感いたしました。

→わたくしの研究は、ヴェクトリズム(指向主義)というものです(詳しくは野中『陸奥話記の成立』第20章をお読みください)。人間の心理、欲求、願望、それらテクスト(史資料)を支えている指向(ヴェクトル)を重視する立場です。「海の向こうに行けない」と書かれていれば、そこに断絶感を感じ取り、海流図や歴史的資料(『三国名所図会』『種子島家譜』)に行きあたるというわけです。人間のハートを大切にすると、結果的に学問領域の仕切りなど構っているのが馬鹿らしくなるということです(脱領域や学際を目的としたものではなく、それはあくまでも結果。大切なのは、「人間の心」を追い続けること)。どなたも気づいていませんが、この研究には古代日本の国境を画定したという、歴史学的にも大きな成果を含んでいます。

[81] 薩摩硫黄島の熊野三山と「平家物語」を観て Name:西野晃平(野中が代理投稿) Date:2018/03/17(土) 00:22 [ 返信 ]
 三つの謎、@三人が流されたのは、この硫黄島なのか。A三人はこの硫黄島のどこに住んでいたのか。B和歌山の熊野から硫黄島に、本宮・新宮・那智の滝を勧請したのは本当なのか。を解き明かしていくプロセスが面白かった。
 特に面白かったのは、三つ目の謎を解きあかす時だ。本宮の位置関係は一つ目の謎を解く際に明らかになっていたが、新宮と那智の滝がどこに勧請されているのかを発見するのに野中先生はとても苦労されていた。熊野本宮大社と熊野速玉神社(新宮)との位置関係と俊寛堂と熊野神社(新宮)の位置関係がピタリと一致し、俊寛堂が昭和八年(1933年)の硫黄島要覧で「御祈大明神社」と書かれていたことから新宮が実際に勧請されていたとわかった時には思わず「おおっ」と声が出てしまった。
那智の滝が勧請されていたということが最後まで断定できないでいたが島の方に聞くと一発でわかったということも実地調査の真骨頂を見たという思いになった。
 従来の文学研究は研究対象の本とそれに関する文学の資料を突き合わせて研究していくというスタイルが一般的だと考えていたが、今回の野中先生の調査の様子を番組で見させていただき「三国名勝図会」のような時代の枠組みを越えた資料を使うことや海流図といった理系の分野で使われる資料を使うこと、実際に現地に入り実地調査を行うことといった、従来の文学研究の方法に囚われない領域を飛び越えた手法に驚きと面白さを感じた。ぜひ自分の研究の際にも使用してみたいと思う。

[82] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/03/21(水) 23:22
>熊野本宮大社と熊野速玉神社(新宮)との位置関係と俊寛堂と熊野神社(新宮)の位置関係がピタリと一致し、俊寛堂が昭和八年(1933年)の硫黄島要覧で「御祈大明神社」と書かれていたことから新宮が実際に勧請されていたとわかった時には思わず「おおっ」と声が出てしまった。

→番組のツボをご理解いただけて、嬉しいかぎりです。

>「三国名勝図会」のような時代の枠組みを越えた資料を使うことや海流図といった理系の分野で使われる資料を使うこと、実際に現地に入り実地調査を行うことといった、従来の文学研究の方法に囚われない領域を飛び越えた手法に驚きと面白さを感じた。ぜひ自分の研究の際にも使用してみたいと思う。

→おっしゃるとおり江戸期の資料を『平家物語』の解釈に使うなど、ふつうは考えられないことです。でも、江戸期の資料と現代の海流図(黒潮)から、同じような境界意識、心理的断絶感を析出しうることを根拠にして(つまりは普遍化することによって)、『平家物語』の深い読みが可能になったのです。資料と資料とをダイレクトに突き合わせる研究は、もはや限界だと言ってよいでしょう。いいところを突いてくださり、ありがとうございます。

[79] 文章読解の新たな手口 Name:金子 栞(野中が代理投稿) Date:2018/03/08(木) 22:45 [ 返信 ]
 野中教授の、『平家物語』を本文だけでなく地理学、歴史学、宗教学からも紐解いていく姿勢がとても興味深かったです。
 ほんの少しの文から、さまざまな視点で多くの情報を得ることができることに驚きました。
 例えば、成経・康頼・俊寛三人の居住地を探る際、「浦々島々」「岩のせまりに」というヒントのみで、「@硫黄島の北部の海岸で九州本土が見える」「A大きな岩が複数ある」ところが三人の居住地の根拠を見出すなど、普通に読んでいたらわからないようなことを解明していて、思わず「なるほど!」と思いました。

[80] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/03/12(月) 21:06
>例えば、成経・康頼・俊寛三人の居住地を探る際、「浦々島々」「岩のせまりに」というヒントのみで、「@硫黄島の北部の海岸で九州本土が見える」「A大きな岩が複数ある」ところが三人の居住地の根拠を見出すなど、普通に読んでいたらわからないようなことを解明していて、思わず「なるほど!」と思いました。

→読みを鍛えてゆくと、「読解力」「想像力」が身に付きます。そこまでは当たり前。その読解力を長年さらに鍛え続けると「感受性」が育ちます。「岩のせまり」から「石ではなく岩」「2個以上あるからこそ、せまり(はざま)」と、瞬時に感じてしまうのです。じつのところ、わたくしの研究のほとんどは直感から入ります。表現からビンビン感じるところがあるのです。突き抜けて見えるような感覚です。その直感はたいていの場合正しいもので、裏付け調査などをしてみて、「やはりそうだったのか」と確認することがよくあります。学生さんにも、丹念に読み解く作業を長年続けていってほしいと願っております。

[77] 放送大学の番組「薩摩硫黄島の熊野三山と『平家物語』」を観て Name:中村朱里(野中が代理投稿) Date:2018/03/01(木) 00:10 [ 返信 ]
 今まで私は、文学について考える際は文学という学問の領域内だけで考えてしまい、実際に現地に行くといったことや、文学だけでなく歴史学や宗教学、自然科学と言った領域を飛び越えて学んでいくことについて考えたことがなかった。そのため、三人が流されたのは硫黄島なのかといった、確かめようがないのではないかと思ってしまうようなことを、海流を見ることによって確実なものとすることに感動した。また、「浦々島々」、「岩の迫」といった言葉を読み、実際の硫黄島を歩くことで、三人は硫黄島のどこに住んでいたのかを確かめていく番組の下りはとても面白く、実際に硫黄島に行ってみたいと感じるほどだった。遙か昔に俊寛が見ていた景色を、現代に生きる人間が実際に眺めるのは、大きな時間の流れと雄大で変わらない自然を感じ、不思議な気持ちになる。文学を実際に体験するということは、とても贅沢で楽しいことだろう。
 放送大学の番組は、中世文学の授業を受講して学んだことをさらに深めてくれた。実際に硫黄島を動画で見ることができて、俊寛たちの暮らしをリアリティを持って想像することができた。また、学問は、様々な分野の集合体として考えるべきであり、そうすることによって様々な角度から検証できることがわかりとても面白く感じた。文学を楽しむために、様々なことを勉強したいと思う。

[78] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/03/05(月) 21:10
>そのため、三人が流されたのは硫黄島なのかといった、確かめようがないのではないかと思ってしまうようなことを、海流を見ることによって確実なものとすることに感動した。

→漫画家の大和和紀さんが若いころ漫画の中で黒電話を描いたことがありました。その後、電話機はカラフルになり、プッシュボタンになり、形状も大きく変化しました。そのため、あとからそのマンガを読み返すと、とても古臭く感じたというのです。それ以降、大和和紀さんは、形状の変化しやすい電子機器類を極力描かなくなったということです。文学や歴史学の研究者からしますと、黒電話を手がかりにすれば、その作品が描かれた時代を推定できるというわけです。このように、虚構には、作者が意図的に仕組んだものだけでなく、思わず知らず時代相や背景が露呈してしまったというようなものもあります。延慶本『平家物語』の表現は、思わず知らず実相を露呈してしまったようなところが多くちりばめられています。それを見抜くのが、研究者の仕事です。

[75] 領域横断的な研究の可能性 Name:阿久津大夢(野中が代理投稿) Date:2018/02/20(火) 08:04 [ 返信 ]
 俊寛・平康頼・藤原成経が硫黄島で、熊野三山をなるべく類似の地形で勧請したということや、三名が硫黄島の北の大谷(ウータン)というところに居住し、特に落胆した俊寛が休んだり、九州や京都を思慕したりしていた岩場の存在などが、『平家物語』の古態本に書かれているのは、先生の現地での実証的な研究で史実性の強い内容であることがわかった。古代日本人の日本という国の最果てにある硫黄島に流された三名の生活の様子などでさえも、ここまでの詳しく記述され、しかもそれが事実性の強いものだとすれば、平家物語は原初の成立段階では、必ずしも虚構や想像を前提にせず。一部は史実的な物語も『平家物語』にはあるのだということが窺えた。秘境の島での三名の生活を事実として書くことができる人間は当時であってもそれほど多くないだろう。つまり『平家物語』のこの章段の成立には、この三名に近しいあるいは、この三名の硫黄島での生活を見聞きした人物が関与していることが想像される。つまり、一つ一つの『平家物語』の史実性を実証することによっても、『平家物語』の作者圏や作品の成立過程が特定できるのではないか。それはもちろん簡単なことではないが、『平家物語』の史実性の確認が新たな研究の可能性になっていることを感じた。そのために研究者自身が、現地に出向き、いわゆる「本文の読み」的な研究以外にも、宗教学や地理学、歴史学などの知見をできる限り使って、調査することが求められることが再確認できた。
 現代人は科学を駆使して一年中どこでも同じ生産性で、生活を営むことができるようになった。しかし科学成立以前の人間の営みは、例えば地理的な条件や気候などに大きく左右されながら生きていたであろう。そうした生活のなかで古典文学も生まれている。古典文学の成立には、当時の人間の生活や思考が関わっているのは当然であるから、古典文学の理解には、領域横断的な研究によるそれらの理解は避けては通れない。現地調査や文学以外の研究知見を用いるのは、古典文学の本質的な理解には不可欠であろう。

[76] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/02/26(月) 11:33
>『平家物語』のこの章段の成立には、この三名に近しいあるいは、この三名の硫黄島での生活を見聞きした人物が関与していることが想像される。つまり、一つ一つの『平家物語』の史実性を実証することによっても、『平家物語』の作者圏や作品の成立過程が特定できるのではないか。

→ここ半世紀の研究の流れは、実体を解明することを断念し(永遠の謎として遠ざけて)、テクストの「読み」に傾斜していく傾向にあります。しかし、現実に『平家物語』は存在し、そこに一定の事実が含まれているのは間違いありません。ご指摘のように、どこかの誰かが物語の発生に関与したことも否定のしようがありません。実体を想定することも、テクストの「読み」も、両方大切だと思います。「作者圏」などという言葉は研究史の上では古めかしい用語なのですが、しかし我々が忘れていた大切なことを思い出させてくれ、新鮮に感じました。ありがとうございます。

[73] 番組を視聴して Name:寺本麻美(野中が代理投稿) Date:2018/02/10(土) 23:20 [ 返信 ]
 今回番組を視聴していて最も印象的だったのは、実際に硫黄島へ調査に向かうVTRが含まれていたことでした。これまで様々な講義を受けてきましたが、文学研究をする中で実際に現地に赴き、そしてそこで調査し判明したことを研究に活かす、というのはなかなか聞かない話でしたので新鮮に感じました。文学研究というと、文書とにらめっこする学問、という印象が大変強かったのですが、今回の番組視聴でその固定概念が崩れると同時に、文学研究への関心、意欲が高まりました。
 ただ、今回のように実際に物語の舞台を訪れ調査する際には、その地域で大幅な地形の変化などが起きていないか確認しておくことも重要だと感じました。今回の薩摩硫黄島のように周囲が海に囲まれている場合(特に大谷と呼ばれる大きな岩が集まる場所など)は、波による浸食の影響も考えられるのではないかと思います。物語が書かれた当時、あるいは舞台となった時代においても同じような地形であったのか確認する作業も極めて重要なものだと思いました。
 もう一つ、番組を見ていて印象に残ったのは、最後の「真実や真理の側に領域はない」という言葉でした。これは授業のなかでも先生がおっしゃっていたことですが、今回の番組視聴を通してその言葉の重みをより強く感じることができました。
 今回番組の中で三つの謎を解き明かす際に、「三国名勝図会」など日本国内の書物についてはもちろんのこと、潮の流れや滝の種類についてなど様々な知識が用いられているのを見て、「領域がない」ことを実感しました。偉大な学者は自分の専門以外の知識も多く持ち合わせているものだ、とどこかで聞いたことがありますが、何かを探求するには幅広い知識と広い視野が必要不可欠なのだと再認識しました。私も「専門外だから」などと理由をつけずに、幅広い分野の知識に関心を持ち、触れていきたいと思います。

[74] RE:ありがとうございます Name:野中哲照 Date:2018/02/16(金) 09:38
〉ただ、今回のように実際に物語の舞台を訪れ調査する際には、その地域で大幅な地形の変化などが起きていないか確認しておくことも重要だと感じました。今回の薩摩硫黄島のように周囲が海に囲まれている場合(特に大谷と呼ばれる大きな岩が集まる場所など)は、波による浸食の影響も考えられるのではないかと思います。物語が書かれた当時、あるいは舞台となった時代においても同じような地形であったのか確認する作業も極めて重要なものだと思いました。
→重要なご指摘です。地形が変化したことなど、古地図の残っていない離島では立証のしようがないように見えます。ところが、わたくしは次のような論証方法を採っております。硫黄島の大谷の地形で、@稲村岳から北に五十余町、A海に面している、B複数の巨石、C崖が海に迫っているの4点が、ここが3人の住まいだとする根拠なのですが、このうち地形が変化しそうなのはB、Cですね。ところがBについては、硫黄島の北側海岸線に巨石の林立する場所がほかにないこと(一地域の巨石だけがことごとく粉砕されて大谷だけに残存しているという変化は考えにくいこと)が明白であり、Cについても、地震などで起こりうる崩落を想定しても、それほど崖が海に迫っていたとみられる場所がほかにないことを確認しております。BCがそのような手続き付きの証拠であっても、@やAで前提的な絞り込みや補強がなされているので、BCだけを取り上げて、この説が「危うい」ということにはならないのです。それに、放送の中では触れていませんが、延慶本『平家』の中では、赦免船が硫黄島の北側にいったん着いて成経・康頼らと対面したあと、その船を硫黄島本港である南側に回したと読める表現もあるのです。硫黄島の北側で、船を仮にでも寄せられそうな場所は、大谷、坂元、小坂元の三か所しかなく、その三か所のうち大谷は延慶本『平家』の表現とことごとく符合する=偶然の一致とは考えにくい=という話なのです。


[ HOME掲示板TOP一覧表示ツリー表示トピック表示新規投稿記事検索記事修正・削除携帯用URL管理用 ]
1件〜10件(全37件)  134       <RSS>    【管理者へ連絡


無料レンタル掲示板 1616BBS